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日本人は自然の空間に非常に手を入れるのですが、手を入れていないかのように演出します。
また、敷地内と敷地外をくっきりと分けないで、いかに一体化するかを考えて庭づくりを行います。それが自然にできたときに、日本人は安らぎを感じると言います。こういう感覚を失っていないうちは日本は大丈夫だと思いますね。
このように日本人は空間づくりの天才です。 (略) バランス良く配置して空間をつくれば、緑は少しでいいという感覚です。そして優れたものであればあるほどシンプルです。
それが端的に表れているのが床の間です。床の間には掛け軸と一輪挿しくらいしかないけれども、一つの空間を創造しています。なぜわざわざ無駄に見える空間をつくるのかと思うけれども、実はそこにすべてが凝縮されているわけです。 (略) 一枝だけ持ってきて床の間の花器に挿せば、ツツジの美しさをその一本が代弁してくれます。
いわば、「生命を活かす空間づくり」。こういう感覚に日本人は長(た)けているんですね。 |
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お茶室を初めて訪れたとき、「子供のおもちゃのような部屋だ」と、とても息苦しく感じたものです。
ところが、そこに入り込んで眺めたときにイメージが広がっていくような感動を覚えました。
日本文化を縮み志向という人があるけれど、そうではないですね。頭で考えると、そのように見えますが、しかし広すぎたらイメージが広がっていかない。狭い空間をつくるからこそそれが可能となるわけです。 (略) しきりの効果で、向こうには奥がありそうだと想像するからです。
そういう意味で日本の衝立は優れたものだと思いますね。 (略)
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欧米や韓国には、自然から遠く離れたものが、より完璧でより美しいものだという発想があります。ところが日本の場合は、極めていけばいくほど自然感覚に近い「道」となっていきます。しかし、それは非常に高度な世界です。
それが日本人とのギャップを生み、私が激しく悩んだ原因でした。
自然から離れた高度なものだけがいいものだという感覚が、日本人と激しくぶつかり、抵抗しようとしたのです。 |
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現在の日本をよくよく見ていくと、「欧米化された日本」「農耕アジア的な日本」「農耕アジア以前の時代に由来する日本」という三つの世界が共存しているように思います。
そして三つ目の「農耕アジア以前の時代に由来する日本」が日本人の中にどっしりと横たわり、それが外国人には「理解不能」を生んでいるのだと考えます。
「農耕アジア以前の時代に由来する日本」とは、縄文時代、新石器時代の、農耕文明が展開する以前の感覚です。
この時代には、人類は山川草木のすべてに神の存在を感じ、自然と一体となって生きているという感覚・感性をもっていたに違いありません。
そうした感性は農耕が始まり、文明の発展とともに薄れ、消え去っていくものですが、日本の場合は残った。そして現代日本文化の基層にしっかりと息づいていると思うのです。
それが、日本人のものをつくるときにも、人間関係の在り方にも、すべてに含まれるわけです。 |
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日本の社会秩序が世界のどこよりも保たれているのは、もちろん西洋から取り入れた普遍的な制度によって保たれている部分もありますが、それよりも、生活する人々の間の自然な調整作用の働きで保たれている部分のほうがずっと大きいと思います。
自然をあるがままに受け入れ、それを自分自身の中で調和させていく。
人間は自然の一部であって、人間も自然も等しい存在といった意識から、相手を自分の中にいかに受け入れるか、また、いかに調和していくかという気持ちが発展し、共同体が形成され、それが日本的な集団主義のベースとなった。こういうベースがあって、農耕共同体になっていったと考えられます。 |
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西洋を中心とした近代社会は、物事を主体と客体に分けて見ようとします。人間と自然、自己と他者をはっきりと区別する。
これに対して日本人は、主体と客体とを明確に区別しない世界にずっとこだわり続けて文化を形成してきました。
対象との「分離」ではなく、「融合」に重きを置き、対象と自分を合わせたトータルな世界の調和を理想としてきたのです。ですから日本人はいくら主体性がないと叩かれようとも、徹底した主体の自由を理想とする西欧近代のイデオロギーを採用していくとはとうてい考えられないのです。もし、そうなってしまえば「日本の死」を意味するとさえ思います。
あらゆるものがグローバル化されていく中で、これからは近代科学的な発想では立ちゆかなくなっていくと思います。
資本主義の発想も限界が来ている。ある意味、アメリカのグローバルスタンダードは西洋近代化の究極にある近代最後の姿です。その先を行かねばならないときはすでにきている。
ではどこに未来性があるのかといったときに、私は、日本の中に息づいている「農耕アジア以前の時代に由来する日本」だと思うのです。
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しかし、いま多くの日本人はそうした大事なものを忘れてしまっているようです。
日本は精神性の高い国だけれども、その精神性の奥行きがなくなると、日本はおかしくなると思いますね。
教育の荒廃や親による虐待が急増している問題なども、関係があるのではないでしょうか。
だけど、行くところまで行ったときに、日本人はきっと戻ってくると思うのです。 (略) 一時的に新しいものが出てきても、日本人の感覚に合わないものは消えていくんですね。
焼き物にしても、いまの四十代から六十代は西洋風のものを好みますが、若い作家達は日本的な素朴で渋いものをつくる傾向にあります。
このように帰ってくる力が強く働くのです。 (略) |
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☆ 止まることなく動き続けるダイナミズム
日本文化の最大の特徴は、常に止まることなく動き続け、積極的に外部と習合していき、そのことによって革新を果たしていこうとするダイナミズムにあると思います。
だから、中国やインド、地中海や中東なでで展開された古代文明のように、完成された文化として、いつしかその動きを止めてしまうことがありません。
日本で古代や中世に花開いた高度な精神文明の伝統が遺物としてではなく現在に生きているのは、そうした革新性をもったダイナミズムの働きがあるからだと思います。私はそこに、日本が孕む世界的な可能性を感じるのです。
日本文化は、宗教性と非宗教性との中間にあるという柔らかさをもっています。その精神的な影響下では、およそどんな世界宗教も排除することなく、仲良く共存できるという未来的な普遍性を持っています。
なぜなら、それは自然の中に生きる人間の足下から横へと広がっていった普遍性に源を発しているからです。
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日本人は「ありがとう」という言葉を頻繁に使います。
韓国人は「ありがとう」を滅多に使いません。「なんて他人行儀だ」ということになるわけです。
ある韓国人牧師は、「日本人は神様のように生きようとしている。なんと不遜な者達か」と言いました。しかし、日本にいると、ほんの小さな物事に感謝したい気持ちが出てきます。
「おかげ」はどこからくるか。唯一絶対の神ではなく、「自然力の作用」だと思います。
日本人は神様のように生きようとしているのではなく、あらゆる他者性の中に自然の作用を感じて生きること、それを生活の理想としている、そういうべきではないでしょうか。 |
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日本に来て私がついていけなかった最大の問題は言葉の使い方でした。
日本人は頻繁に受身形を使います。能動的な言い方になれている私は「先生に叱られた」「女房に死なれた」「彼女に振られた」という使い方にも違和感を覚えましたが、「泥棒に入られた」というのには本当に驚いてしまいました。
これは意志伝達の問題を超えて、発想の問題に関わってきます。当初私は、受け身的な態度を取る日本人はなんて表面的で欺瞞的(ぎまんてき)なんだと思ったものです。
しかしこの受身形をよく見ていくと、自分にも落ち度があったと、あるいは相手への配慮が感じられるのです。
また、日本人が意識の中で主体に重点を置くのではなく、現実の場面、場所、実態に重点を置いていることの表れだと思えてきました。
現代日本人の受身志向の強さは、自他未分離の意識そのものではなく、分離していても分離しまいとする意識の働きの強さで、これは日本が西欧ともアジアとも異なる文化基盤をもっていることを如実に物語るものだと思われます。
そこに、アジア的な血縁主義に基づく排他的な利己主義の限界も超えた未来的な人間関係への可能性が秘められていると感じられるのです。 |
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しかし、なぜ日本だけが特殊な世界を構築できたのかを考えると、豊かな風土と四方を海で囲まれているということが大きいように思います。
そのため侵略を受けたことがなく、文明・文化も外から直接強烈に入ってくることもありませんでした。
海がちょうどクッションの働きをあいてくれたおかげで旧(ふる)いものを壊すことなく新しい文明を吸収でき、独自の文化を作り上げることができたのだと思います。
一方、朝鮮半島は高度な中国文化に晒(さら)され、圧倒されてきました。 (略) |
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日本を理解するには、内側からの目線と外側からの目線を持ち合わせていないと難しいでしょう。
そういう意味でも私は欧米人でなくて良かったなと思っているんです。欧米人だったら、いつまでも日本を外からの目線で見ていたと思うのです。
欧米人は理論的に分析し、文章に表現する力があります。それを読んで日本人は、なるほどと思うけれども、腑(ふ)に落ちるところまではいかない。 (略) 私は隣の国だったので、いまでは日本の感覚に立ってものを見ることができます。
そして、時にはすっと外側から日本を見ることができるのです。
いまでは、外から日本を見て悩んでいた自分はとても大切な経験をしたと思います。
日本人は無意識の領域の独自性をなかなか自覚することはできませんし、それがわからない多くの外国人の悩みに少しは役に立つことができるかも知れませんから。
日本が好きになって、その目で韓国を見ると違和感を感じ、自分はいったいどこの国の人間なのかと悩んだときもありましたけれども、いまでは、「日本も私の国、韓国も私の国」と、両方に愛着がもてるのです。 (略) おそらくナショナリズムの壁を越えてしまったんですね。
韓国人はイデオロギーさえ除けば日本を好きになると思うのです。
反日教育の不毛性に気づき、儒教的な感覚を超えて日本とつきあうようになれば良きパートナーになれる国だと思います。やはり感覚的にいちばん合っている国同士だと思いますからね。(略) |